今回の問題
制限行為能力者に関する次の記述は、民法の規定及び判例によれば正しいか?
被補助人が、補助人の同意を得なければならない行為について、同意を得ていないにもかかわらず、詐術を用いて相手方に補助人の同意を得たと信じさせていた時は、被補助人は当該行為を取り消すことができない
物語
「1,500万円……?」
高橋千尋は、父の部屋で見つけた売買契約書をもう一度見返した。
3年前に亡くなった母から父・正夫が相続した郊外の土地が売られていた。
「お父さん、これ何?」
72歳の正夫は、一瞬ばつの悪そうな顔をした。
「土地だよ。売ったんだ」
「売ったって……私、同意してないよね?」
半年前、家庭裁判所で手続きをしたばかりだった。
正夫は被補助人となり、千尋が補助人についた。不動産の売却や大規模な修繕工事などについては、千尋の同意を得てから行うことになっている。
そこまでしたのには理由があった。
前年、正夫は突然訪ねてきた業者に「このままでは雨漏りする」と言われ、屋根と外壁の大規模な修繕工事を480万円で契約した。
その屋根は、前年にも修理したばかりだった。
「お父さん、この家の屋根、去年直したばっかりじゃない」
契約書を持って問い詰めたとき、父は本気で不思議そうな顔をした。
「……そうだったか?」
普段の生活は一人でできる。
買い物にも行くし、銀行にも行く。
ただ、動く金額が大きくなるほど、判断は危なっかしくなった。
千尋は、面倒な手続きをしてでも父の財産を守りたかった。
その父が、土地を勝手に売った。
しかも、この土地について父と話したことがある。
「こんな土地、持ってたってしょうがない。1,500万円で買うって会社があるらしいぞ」
「安すぎるよ。せめて他の会社にも査定してもらわないと」
その場では、父が納得していたように見えた。
「でも、お父さん」
千尋は契約書を指さした。
「私の同意なしで売ったってことだよね?」
正夫はばつが悪そうに言った。
「…なかったことにできるんじゃないか」
千尋も同じことを考えていた。
そうだ。
そのための制度ではないか。
千尋はすぐに、不動産会社の担当者、佐藤に電話した。
「この土地の売却なのですが、実は私の同意を得ずに父が話を進めてしまっていたようでして。契約を取り消させていただきたいです」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
仲介手数料がなくなるのだから無理もない、と思ったが、返ってきたのは想定外の言葉だった。
「……高橋さん、お父さまから何も聞いていませんか?」
「何をですか?」
「私も心配だったんです」
佐藤は契約の日のことを話し始めた。
その日の正夫は、同じ説明を二度聞き返したり、一度話したことを忘れたりしていたという。
佐藤もこのまま契約を進めていいものか迷い、正夫に確認した。
「娘さんが補助人についていらっしゃいますよね。今回の土地の売却は、娘さんの同意が必要だと聞いています」
「大丈夫です。娘にはもう話しました」
佐藤はさらに確認した。
「売却についても同意をもらっているんですね?」
「ええ。『その金額なら売っていい』と言ってますよ」
千尋は黙って電話を聞いていた。
「ですから私は、千尋さんも了承しているものだと思って契約を進めました」
電話を切った千尋は、父を見た。
正夫は俯いていた。
「お父さん」
返事はない。
「『千尋が売っていいと言った』って、佐藤さんに言ったの?」
しばらくして、正夫は小さく答えた。
「……言った」
「なんでそんな嘘ついたの」
「本当のことを言ったら、どうせ契約出来ないだろ?」
千尋は言葉を失った。
父は、うっかりしていたわけではなかった。
今回は、自分に千尋の同意が必要だと分かっていた。
分かったうえで、邪魔されたくないから嘘をついた。
それでも千尋は契約を取り消せないか専門家に相談した。
しかし、返ってきた答えは期待していたものとは違った。
土地の売買契約はそのまま残った。
後日、千尋が別の不動産会社に査定を頼むと、その土地には2,500万円程度の価値があると言われた。
1,000万円近く安く手放したことになる。
正夫は査定書を見たまま、しばらく何も言わなかった。
解説
本来、補助人の同意が必要な行為を、被補助人が同意を得ずに行った場合、その行為は取り消すことができる。
しかし、制限行為能力者が詐術を用いて相手方を信じさせた場合は別である。
今回、正夫は千尋の同意を得ていないことを知りながら、「娘の同意はもらっている」と嘘をつき、その言葉を信じた佐藤に契約をさせている。
この場合、後になって「実は同意をもらっていませんでした。だから取り消します」と主張することはできない。